2011年04月11日

日本中に広がれ!「はるかのひまわり」 #doyukai

昨年、兵庫中小起業家同友会の社長様から教えていただいた、「はるかのひまわり」

はるかのひまわりの由来はこうである。

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兵庫県神戸市東灘区に住む、加藤いつかさんと4歳年下の妹・はるかさんは仲の良い元気一杯の姉妹でした。いつかさんは、中学のハンドボール部でゴールキーパーとして全国大会に出場するほどの スポーツ少女。はるかちゃんは動物が大好きで、隣の家のオウムまでかわいがり、笑顔のたえない活発でオテンバな女の子でした。

平成7年1月17日の明け方、5時46分、大きな地震が襲いました 木造の建物は、その揺れでひとたまりもなく崩れてしまい、2階に寝ていた、いつかさんはなんとか自力で脱出したものの、2階部分が崩れ落ち、1階は完全に押しつぶされていました。

「はるかは?どこや?はるかがいない」はるかちゃんがガレキの下から発見されたのは、地震発生から7時間後。近くの高校に設けられた遺体安置所にいった姉 のいつかさんは、内出血で腫れ上がった遺体の顔を一目見て思いました。(こんなん、はるかやない。はるかと違う)妹の死をやっと納得できたのは、震災の混 乱の中で形ばかりのお葬式が終わり、納骨を済ませたときでした。(はるかはもういないんやなぁ・・・)

震災から半年後、かつて加藤さんの家があった空き地、はるかちゃんの遺体を発見した場所。驚いたことに、そこに無数のひまわりの花が、力強く、太陽に向っ て咲いていました。お母さんの満子さんはひまわりを見て、「娘がひまわりとなって帰ってきた」と涙しました。近所の人たちは、この花をこう呼びました。

『はるかのひまわり』

何も無くなってしまった町の空に、次々に咲いた大輪の花はたくさんの人を励まし勇気付けました。いつかさんは今、病院の事務の仕事をしながら、全国の小学 生や中学生たちに、地震の体験を伝え歩いています。

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この話をはじめて聞いたとき、あの1.17に一気に時が戻った気がした。

そして、私もひまわりを育てたいと思うようになり、町内の人にも協力を得て

はるかのひまわりの種を収穫する事が出来た。

そして、今年、非常に残念な事ですが東日本大震災が起きてしまった。

今年は、昨年以上に「はるかのひまわり」を広めたく思うようになった。

やはり、人の思いは日本全国共通だろうか、

新潟中小起業家同友会の社長様が、種を分けて欲しいと言う。

私は喜んで昨年収穫できた種を郵送させていただいた。

本日、新潟の社長様から連絡を頂いた。

新潟の社長様の文面 一部引用

-----ここから-------

自動車板金塗装業経営の親子と話をする機会が有りまして、家・会社全て津波で流されても、気丈に笑顔で話してくれていましたが、時折込み上げて来るものを堪えきれず言葉につまる場面も・・・・・。

自分たちの飲み水も少ない中、「はるか」の話は出来ない空気でしたが、最後に思い切って話を切り出した所、神戸のはるかのひまわりの事を知っていらっしゃいました。

「そんな余裕が有るわけがない」と言われるかと思っていましたが、

きっと藁にもすがる想いだったんでしょう、涙を浮かべて「海岸をひまわりでいっぱいにしたい」といってくれました。

まだまだがれきの山ですので、今年は海岸に植えるのは無理かもしれませんが、避難所の志津川小学校からでも植えたいと・・・・・・。

少しでも勇気づけたいと思い、取急ぎ私に送って頂いた種をお渡ししたら、本当に喜んでくれて「大切に育てます」と言ってくれました。

-----ここまで-------

東日本大震災の被災地で、今まさに南三陸町の志津川小学校で避難生活をしておられる方の手に渡りました。

本当に嬉しい限りです。

今は被災地では十分育てる事は無理かもしれませんが、

必ず復興して南三陸町の皆様の笑顔とひまわりが見れる日が必ずやってくると思います。

昨年収穫した種が、ほんの僅かですが、今、被災地の方の心を癒そうとしています。

人のつながりを大事に。本当に有難うございました。
posted by katagijutu at 16:08| 業務日誌